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或る青年の告白 あべじの足 新津 勉

夢魔

 だれでも幼いころを思い返したら、こわい夢の思い出の一つ二つは持っているであろう。
 私にはちょっと風変わりな、印象の強い悪夢の思い出があった。母の乳房から離れて物ごころづくまでの、何の苦もなかった幼年のころの平和ないくつかの思い出、それらのとぎれとぎれななつかし思い出に教習の手をさしのべる以前に、墨一色で黒々と塗りつぶしたように立ちふさがる恐ろしい夢……。一つ目小僧でもない、三つ目小僧でもない、大入道や単なる白い幽霊でもなかった。私の夢は人に話しても理解されない、異質のものだった。おそらく、こんな夢を見たら、大人でも、うなされないではいないだろう。
 夜……床について目を閉じる。昼間の遊びや、楽しかったことなど、思うともなく思い浮かべながら、次第にまどろんでいく……。
 眠りに陥る前の意識のすき間に、すうっと暗い影がさし、かすかな不安がしびれかかった意識をかり立てて、追い払おうとする……。その努力はむなしい。暗い影はますます暗黒の度を増して、小さい私をとっぷりと眠りの中に−−悪夢の中に浸してしまう……。
 そこは薄暗い部屋だった。お寺の本堂か何かの、人気のない死んだような部屋だった。どこからか一すじの明かりが、畳の上にななめにさし込んでいた。
 いつの間にか、その部屋に、坊主の群がひしめいていた。青ざめた無表情で、みな同じようなこわばった体つき、それでいてギクシャクと絶え間なく動きながら、片手に持った木の槌で、鉦をたたくのだ。三人、四人、五人、十人……何人いるのか見当もつかなかった。どれもが同じに見えた。彼らは人形なのだ。ぎこちない動作、固い体の線、呼吸の通わない人形の冷たい雰囲気……。彼らはゆっきりゆっくりと、しかし同じ動作で鉦をたたく。絶え間なくギクシャクと木の槌をふりあげては、一せいにたたく。不思議なことには大勢の坊主がそれぞれに鉦をたたくのに、鉦の音はたった一つなのだ。陰々と、うす暗い堂内に鳴り響く鉦の音……。青ざめた無表情な顔の中で、目玉だけが時々、上を見たり舌を見たりする。坐ったきりの腰から舌が、一様に腐っている。その、今にも崩れそうな腰に、白いウジが這いまわっている。
 その、ウジの一匹が畳の上に落ちて、のろのろとはいずっている。
 カーン カーン カーン……
 カーン カーン カーン……
 単調な鉦の音……いつ果てるとも知れない孤独なその響きが、私の耳を打つ。
 いったい、私はどこにいるのだろう?
 どこにも私の姿はない。
 それなのに私はその響きに耳をふさぐことも、目をそむけることもできないのだ……。体全体で感じている恐怖は、この場から逃れるどころか、それが私の全存在であるかのように、離れられないものを感じさせられていた。
 果てしのない寂寞、底知れない恐怖に、私は圧倒されひしがれて、わっと泣き出すのだ。
「まあ、この子はどうしたんでしょうねえ」
 と、母はもてあます。父は、
「昼間、あんまり大人達がかまうから、神経がたかぶっているんだ」
 などという。
「勉、何かこわい夢でも見たのかい?」
「アベジが来た、アベジが来た!」
と、私は叫ぶ。私はなぜか、この夢をアベジといっていたらしい。
 父母にはなんのことだかわからない。
「あべじってなあに?」
 幼い私には答えられない。
 いつも同じ夢だった。
 私は「あべじ」の夢で死というものを感じた。あの青ざめた坊主の無表情、鉦の音、白くうごめく無数のウジ……。
 こんな夢を、幼い私は毎夜のように見たのだ。
 そして、その絶大な恐怖が、私の幼い性欲を刺激した。「あべじ」はだんだん妙な色彩を帯びて行った。
 人形の坊主達が、女の幽霊に変わって行ったころ、私はもうこわいというよりは一種の期待と不思議なあこがれをもって、毎夜の夢をたのしんだ。
 これから御紹介するのは、そうした幼い私の、異様な思い出の一こまである。

お岩様の足

 幽霊というものは、何かの未練のために、あの世に行けない人間の霊魂の凝り固まったものだそうな。それは深いうらみの場合もあろう、また、はげしい恋慕の場合も、残した子に対する絶ちがたい母性愛の場合もあろう。
 いずれにせよ、幽霊には足がないことになっている。ところが私の夢の中に出て来る女の幽霊には、ちゃんと二本の足があった。
 それも、かぼそい弱々しい足ではない。ふっくらとした太ももである。
 それは四谷怪談のお岩の幽霊だった。醜怪なお化けなのに、乳房もあれば足もあり、もっと女らしいところも、明らかに持っていた。彼女は薄い白い着物をまとって、私の夢の中にあらわれた。
 私をどうにかするのかと思っていると、彼女の目指す相手は別にあった。それは美しい伊右衛門なのだ。
 生きていた時のお岩は弱々しい存在だったが、妖怪になってのお岩は絶大な力に恵まれていた。伊右衛門のふりまわす刀など、幽霊にとっては何の役にも立たなかった。突いても切っても手ごたえがなかった。
 疲れ果てた伊右衛門が、ぐったりとへたばったところへ、幽霊がのしかかっていく。
 幽霊でも妖怪でも、女なのだ。けれども、まさか幽霊が腰巻きやパンツをつけてはいないから、腰部には何もまとっていない。幼い少年には、それが妙に気がかりである。
 私は、母から性器の大切なことを教えられていた。いつか私がおもちゃにしているのを見て、
「そこは大切な所だから、おもちゃにしてはいけないよ。大きくなったらわかります」
 くれぐれも言われたので、私は、男にも女にもここは一番大切な所なんだな−−だからお風呂に入る時、前を隠すのだ……と考えていた。
 だのに、妖怪は何もはいていない。そして美しい男に乗りかかろうとしている。
 このことが、幼い少年を奇妙に刺激してやまなかった。非常な恥ずかしさとともに、押さえがたい不思議なときめきにゆすぶられた。

お化けごっこ

 足! 足のある幽霊! そう思うだけで一種の快美感が、私を襲うようになった。
 お化けも幽霊も、この少年には非常になつかしい存在でもあった。たいていの子供はお化けがこわくて、夜一人で便所に行けないなどというものさえあるのに、私は夜半、火葬場の森の中をうろつくことができた。
 火葬場の付近に、一軒の大きな農家があった。屋敷のような豪壮な構えの中の、土蔵の一つに美しい狂女が監禁されていた。
 その家の娘なのだが、幼い時から気が変で、今では一歩も外へ出されなかった。そのかわり狂女はこの土蔵の中では、何でも自由にふるまっていた。土蔵といっても畳の敷いてある部屋が七つもあって、もったいない位の身の上だった。彼女は昔から、子供達と遊ぶのが何より好きだった。それも普通の遊びではない、どういうものかお化けのまねをするのが大好きだった。着物をだらしなく着て髪を振り乱し、「お化けだぞう」とわめいて子供達を追っかけまわす。子供達はワアワアキャーキャーと逃げまわる。ある時はお化け退治で狂女を追いつめるなど、興は尽きなかった。
 彼女の常人と変わって見えるのはこの点位なもので、幼い私には他に変わったところはわからなかった。しかし私にはこの狂女が非常にこわかった。なぜこわかったかというと、彼女はお化け遊びの時、不思議に私ばかりを狙って追ってくるのだ。
 そのくせ、友達に誘われては、この狂女の土蔵へ毎日のように入り込んだ。これはなぜだろうか?
 狂女は、子供達を見るとうれしそうにお化けの扮装にとりかかる。せっかくきれいに結ってもらった髪を、パラリとほどいて顔の前に垂れ下げ、キチンと着た着物の前をはだけたりしているうちに、子どもたちはそれぞれ好きな所に隠れてしまう。
 狂女は探し始める。うす暗い土蔵の中だから、いろいろなもの蔭があって、かくれ場所には事欠かない。狂女が一人を見つけだして、
「食っちゃうぞォ!」
 と襲いかかると、あちらこちらからドヤドヤと子供達が出て来て、お化け退治の一幕を演ずるのである。
 他愛もない遊びだが、私達には結構スリルがあり、闘争の快感もあった。それに狂女とはいえ、美しい豊満な女をしいたげる快感は私達を昂奮させたものである。
 狂女も、乳房をつかまれたり、ももにしがみつかれたりして、キャッキャッと異様な悲鳴を上げて笑いくずれていた。

土蔵の誘惑

 さて、その最初に優麗にとっつかまるのがいつも私なのだ。私が幽霊の興味をひいたのか、それとも私が最も非力で、幽霊には扱いやすかったのか、必ずといっていい位、私が犠牲者だった。他の子供達も、私がある程度まで、しいたげられるまで出て来ない。
 危機一髪という時、ワアーッと喚声をあげて飛び出すのだ。そして幽霊と子供達の大乱闘が展開される。どうかして子供達の人数が少なくて、幽霊を退治するのにもてあますこともあった。
 私が一番恐れたのは次のようなことである。狂女に捕らえられて、いろいろの形式でしいたげられるのだが、もしも子供達が助けに来てくれなかったらどうしようということである。幽霊のまねをしているのは常人ではない狂った女なのだ。何をするかわからない。本当に食ってしまうかも知れない。幸い子供達が間一髪の時飛び出して来るからよいようなものの、何かの間違いで助けに来なかったらどうしよう。そんなことは万一にもなさそうだが、何かにつけて気のまわる私は、その万一の場合を考えると、絶大な恐怖のとりこになった。
 そして、もし私の一番大切な所を、狂女が
「食っちまうぞォ!」といいながら本当に食っちまったら、泣くにも泣けないことになるのではないか?
 こう思うと、狂女の家へ行くのがだんだんためらわれて来たのである。三度に一度は子供達の誘いを断った。父母もうすうす噂に聞いていたのだろう、私に行くなといっていた。
 ところが友達が承知しなかった。
「勉さんが来ないと、ちっともおもしろくないや!」
 というので、私は友達が気の毒になる。断られてがっかりして帰る連中の後ろ姿に、私は引きずられるように飛び出してしまうのだ。
 とうとう私は、恐れていた危機にぶつかってしまった。

かくれんぼ

 私はあんなに恐れながらも、心の奥底ではおの恐るべき危機を、ひそかに期待していたのではないだろうか?
 ある日、みんなと土蔵の中で隠れる時、天井のハリにのぼって、屋根裏のせまい所に身をひそめたのである。のぼりにくい所を苦心してよじのぼっただけに、完全な隠れ場所だった。さあ、狂女は、私を見つけ出すことができない。探しても探しても、どんな片すみにもいなかった。子供達も、あんまり私が見つからないので、しまいには出て来て狂女と一緒になって探し始めた。
 一時間……二時間……
 私はみんなの右往左往している様子を、高みから眺めていた。はじめはいつ見つけられるか、というスリルで背筋がゾクゾクしたが、あまりの安全さに、だんだん拍子抜けさえ感じて、時には「バア」と飛び下りてやりたいような衝動まで起きた。
「勉ちゃんはどこへ行ったんだろう?」
「帰っちゃったのかも知れないね!」
「そうだな。帰ったのかも知れない」
「つまんねえな。帰ろうっと!」
 皆はとうとうあきらめて、帰って行った。狂女はがっかりして、ペタンと腰を下ろしてしまった。
 急に土蔵の中はしーんと静かになった。
 狂女はさびしげにしくしく泣き出した。
 私は、気の毒したと思って、姿を現してやった。
 狂女は私を見ると、がむしゃらに飛びついて来た。
「キャー、助けてえ!」
 私は思わず悲鳴を上げて助けを求めたが、皆はすでにいなかった。私はゾッとするような恐怖を感じた。しまった、バチが当たった!
 意地悪をしたバチだ。広い土蔵の中は、狂女と私だけだ。この時ほど狂女が恐ろしかったことはない。
 いつか母に教えられた、大切なものが奪われそうな予感に対する恐怖だった。何だかとり返しのつかないことになりそうな不安だった。
 えたいの知れない恐怖が少年を波のようにゆさぶった。
「こ、こわいよう!」
 いつもなら、もう現れてくれるはずの友達は、だれ一人来てくれない。
 いくら叫んでも無駄なことながら、おそろしさに叫ばずにはいられなかった。

狂女と少年

 しーんと静まりかえった畑の真中の土蔵の中で、少年と美しい狂女との不思議な闘争が演じられていた。母屋の家人も、畑で働いている人々も、だれ一人、土蔵の中の地獄絵を知るものはない。
 ヒバリがピーチク鳴いている。白い雲が晴れた空に浮かんで、田吾作達は仕事の合い間に野良声で馬鹿話に余念がない。
 土蔵の中では、奇妙な戦いがくりひろげられていた。
 美しい妖怪はかわりらしい少年の上に、馬乗りになっていた。キャッキャッと、不思議な笑い声をけたたましく発しながら、白い手で少年の着物をはぎ取ろうとしていた。
「助けてえ! だれか来てえ!」
 お化けの恐怖より現実的な恐怖だった。
 どんなにもがいても、のしかかった狂女の馬鹿力にはかなわなかった。
 いったい何をされるのだろう?
 ひどいことをされるのではないか?
 父母の顔が目に浮かんで来た。
「母さん、助けてえ!」
 狂女の手が私の口を押さえた。かみつこうとしてくわえた狂女の指の、意外なやわらかさに、とまどいして噛みつき得なかった。
 狂女は妙な悲鳴を上げて、指を引き抜いた。
 痛かったのかな? 歯を当てなかったのに……と思う間もなく、狂女の体が私におおいかぶさって来た。
 プーンと、母の匂いとは違った、女の匂いが迫った。真白いおぱいが少年の目の上でたわたにゆれていた。
 ふと甘いなつかしさに−−、少年はその白い豊かな肌に、触れてみたい誘惑にかられていると、彼女の手が少年の手をつかんで、ぐっと引き寄せた。
 少年はハッと本能的に手を引っこめようとした。瞬間、驚くべき早さで、狂女の足が土蔵の扉がしまるようにぴたりと閉ざされて、少年の手をしっかりとはさみ込んでしまった。
「あっ!」
 私は妖怪の足にはさまれたのだ!

倒錯天国

 それは、何という奇妙な感じだったろう。少年はその時、本能的に、狂女が自分に危害を加えないことを感じ取った。
 しかしそれは新たな恐怖だった。この恐怖の中には、はずかしさと期待がまじっていた。
 少年は、手を、ふり回そうとした。
 幽霊の足は刻一刻、少年の手をしめつけて来る。
 二人はそれ以上の行為を知らなかった。けれども少年も狂女も、それでよかったのだ。
 私は次の日から狂女の土蔵へたった一人でおとずれるようになった。
 そして幽霊の足の快い感触を、私は何度も味わったのだ。
 七才の時である。
 今は狂女もこの世にいない。この秘密は、私だけのものになった。
 七才の少年が、幽霊の白い足をたのしんでいたとは、それはお釈迦様でも御存じのない摩訶不思議な倒錯天国だった。

(裏窓・昭和32年7月号より)

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