予科士官学校を経て航空士官学校へ進み、私の宿望は、一応達せられるところまできた。しかし私の場合、念願の叶った欣びは、大きな人世の不幸への転機でもあった。
操縦演習のために、満洲へ渡って5カ月目に終戦となり、あげくの果てが夢にも想わなかった捕虜の逆境に置かれる悲劇に終わったのである。
私は丸4年シベリヤに抑留された後、昭和24年8月に復員した。
私がいまからお伝えする奇妙な体験は、その異国の丘の収容所生活中に起こったものである。
バイカル湖の西方約700キロ、ジベリヤ鉄道幹線に沿う小都会タイシエットを起点とするバイカル・アムール鉄道、通称ハム鉄道と呼ばれる新路線の建設工事のために配置された収容所群が、タイシエット地区であった。
各収容所は数百人からなり、鉄道敷設の予定線上に点々と設置され、順次それぞれ受け持ちの工事が完成すると、さらに未開の奥地へ進んでまた新工事に着手するという方法で、着々と延長されていった。
未開地は、有名なツンドラ地帯であり、密林や原野や湿地の錯綜したいわゆる悪疫瘴癘(しょうらい)の地である。従ってほとんど固有の地名もなく、各収容所は起点のタイシエットから数えた鉄道のキロ数を冠して呼ばれていた。
私は最初、第120キロに収容され、1年半の後に、第227キロへ移動した。
奥地へ入って1年と10カ月を過ぎた昭和23年の11月である。当時、収容所の運営は、階級やメンコの数がものをいう機構が崩壊して半年たち、その後を受け継いだ民主グループの組織のもとに、至って整然と行われていた。
それはまったく、捕虜生活が板についたかのようであった。三重に張りめぐらされた柵が、所々壊れていてもそのまま放置され、四隅の監視望楼は、その梯子がすでに役に立たないまでに荒れるにまかせてあった。
衛兵所詰の警戒兵が、その場所にいることは珍らしい程であったし、朝夕の点呼も形式的に紙に記入されるだけで、捕虜であるはずの私達のほうが、その怠浸ぶりに驚く始末であった。
その年の八月の選挙で、民主グループ委員会の一員に選出された私は、生活部長という職にあった。収容所生活の維持のために、ソ連側から認められた内勤者グループの責任者として、いわば世話役の元締といった仕事で附帯するソ連側との交渉事務も多く、それはまったく縁の下の力持ち的な地味で忙しいものであった。
私は入ソした年の冬に、重い原木をかついで無理をしたのが原因で、ヘルニア的症状が起こり、それ以来激しい作業には耐えられなかった。
一方幼年学校時代に習ったドイツ語がまた意外に役立ち、それを橋渡しにして手早くロシヤ語を覚え、その頃には結構、日用語が使えるようになっていた。(ソ連におけるドイツ語は、ちょうど日本の現在の英語のような立場にあり、加えて独ソ戦のときにドイツに捕虜となって、現地で習得した連中がすくなからずいたので、私の稚拙なドイツ語が、入ソ当初からしばらくの間は、随分彼等との交渉や連絡に便利であった)
それらの理由から適役として推された私は、責任を感じて朝から晩まで飛びまわるように立ち働いた。
毎日の食糧受領は、一番大切な仕事の一つであった。食糧伝票を書いてソ達人事務所に行き、何人ものサインをもらってから、夕方倉庫で受け取るのである。
倉庫番は、サモイロフというジベリヤ生れの30そこそこの男であった。
心もちつり上った薄い眉、うつろのような細目の碧眼、不相応に大きく広がった小鼻、そのどれをとってみても細工の悪い出来のうえに、やや猫背気味の五尺そこそこときているので、その風采は目立って貧弱であった。
彼はまた至って不愛想であり、口数も少くぶっきらぼうで、およそ取り付きのよくない男であった。ソ連人達の間でもほとんど相手にされず、彼の存往はいつも孤独であった。
私は最初からそれこそ腫れものにさわるような気の遣いようをした。
食糧は、穀物・パン・肉・魚・野菜・砂糖・塩・油とそれぞれ1日の定量があった。楽しみのない生活にあっては、三度の食事に寄せられる期待がなにより大きなものであった。
毎日の献立に変化を持たせるために、炊事勤務者はいつも懸命であった。
私の交渉によって、在庫品のなかから同じ定量の穀物であっても、できるだけうまい取り合わせを撰んで受領することが必要であった。
弱い立場の私は、倉庫の実権を握っているサモイロフのご機嫌をうかがわなければならなかった。
そんな私の態度が気に人ったのであろうか案ずるより生むは易しのたとえ、日がたつにつれて、彼はその偏屈さから抜け出したような心易さを示すようになっていった。この倉庫から配給を受ける20人程の収容所の警戒兵や三カ所の鉄道信号所に勤務するソ達人達に対してよりも、私達に好感を示しだすようになったのである。
酷寒のジベリヤは、9月の中頃から霜がおり、その月末にははや雪がちらつき始め、11月ともなれば一面の銀世界、朝晩の寒さは零下15度を超えて、秋を忘れたような冬の到来であった。
月始めのある日のこと、受け出した食糧を炊事夫がかつぎ去った後、いつものように錠前を下して、鍵を手渡そうとする私に、
「ナカノウエ、ちょっと頼みごとがあるんだが」
いつにないサモイロフの言葉に、私は驚いて彼を見た。
「なんてすか? いったい」
「いやたいしたことじゃないんだが……」
彼はこう前置きしてから、その頼みごとなるものを、例のぽっつりぽっつり語る調子で説明した。
最初のうちは、彼の欲しているものが、どんなものであるか、全然見当もつかなかった。が、やがて地面に図示して身振り手振りよろしく話すのを聞いて、私はやっと理解できた。
彼の欲しているものは、なんと浣腸器であった。
収容所の医務室から、ドクトルに内証で借りて来て貰いたいというのが、彼の頼みであった。
独り者の彼が、どうしてそんなものがいるのだろうかと、不思議に思ったが、突っこんできけるような相手ではないので「もしあったなら、こっそりあなたの家へ特っていきましょう」
こういって私は別れた。事実私は、浣腸器など医務室にあるかどうか知らなかった。
入ソするときに特ってきた医療器具が、少々あることは知っていたが、その後、薬品の補給だけで、ついそ器具類の補充されたことぱなかったのである。
とにかく私は、医務室へ飛んでいった。
その年の6月までに、ほかの将校は一人残らず、イルクーツクの特別収容所へ移されていたのだが、医務室ばかりは例外で、軍医中尉が一人残されて、ほかに衛生兵であった補助者が二人いた。
初めは、「軍医殿」と呼ばれていたその中尉も、民主グループの運営になってからは、単に「ドクトル」と呼ばれるだけで、収容所の誰もがすべて対等に話するように変わっていた。
サモイロの希望ではあったが、かけがえのない貴重な器具の借用である以上、いかに私の立場であっても、ドクトルにだけは断って承諾を得なければならない。
幸いに浣腸器は二つあった。ドクトルが気をきかせて、小瓶にわけて呉れたリスリンをもらった私は、その足ですぐに届けにいった。
サモイロフの住居は、衛門から右に折れ、収容所の外柵に沿った方向に2丁程斜面を上った小台地の一角にあった。収容所関係のソ連人の家が点々とあるなかで、彼の建物は一番はずれの端であった。
「オーチニ、スパシーボー(大変有難う)」
彼はついぞ見せたことのない笑顔で、それにいとも大切そうに受け取った。
「ドクトルに断ってありませんし、壊れたら代わりがないのですから大事に使ってください。それからいつ頃返して貰えますか?」
「十日間くらいだ。もちろん注意して使うよ。終わったら君に渡すから」
彼の満悦そうな顔を見て、私は先程の疑問を思い出した。
「誰が病気なのですか?」
彼は私の問いに、ちょっと奇妙な顔をした。私はまずいことをいってしまったと後悔した。
「私だよ」
彼はつぶやくような声をした。
「お大事に、薬が足りなかったらまた持ってきます。綿(脱脂綿)も入用でしたらいってください」
いい終わると私は、部屋を辞した。
作業隊の歌声が、山のほうから聞こえていた。6時を知らせる鐘の音が、あたりにこだまして鳴り響いた。
11月7日は、革命記念日である。7日、8日と2日続きの休みが与えられる。
正月と5月1日のメーデーと、そしてこの革命記念日が、ソ連の最大の祝日である。
郷に入ったら郷に従えの通り、私達日本人も、この日は毎年盛大な催物を展開した。彩りを添える特別料理の計画と準備は、早いときはひと月も前から行われた。定量しか貰えない食糧であってみれば、それは当然であった。私は就任してはじめてのことだったので、特に苦心を払った。
前日の6日の食糧受領は、2日の休日分とさらにその翌日の分と、合せて3日分を一度に受け取った。
そのときにサモイロフが示してくれた心づくしは、まったく意外であった。
倉庫の品物を全部検量して、残品の帳簿以上に余っているものを残らず追加して、きれいさっぱり配給してくれたのである。冬季の食糧は、運搬途中に雪をかぶったり、倉庫に入りこむ湿気のために、ほとんど目方が増しており、あまるのは当然のことであったが、それは倉庫孫のなかば公然の役得として、着服されるものと聞いていたのであるから、彼の好意は誠に格別というに価するものであった。
おかけで予定のほかに二、三品をわらに加えられることになり、収容所全体がサモイロフの好意を感謝したばかりか、当事者の私はおおいに面目を施す結果になった。
私はその原因ともいうべきものに就て、もちろん十分な見当がついていた。
しかし浣腸器を貸したことに対する彼の謝意であろうことを、ドクトルにももちろん、ほかの誰にも打ち明けなかった。事実とは云え、浣腸器と料理などというあまりにも奇妙な対照であったからである。
2日間の休日も、来てしまえばあっけなく過ぎてしまった、私はかえって平日よりあわただしい程であった。
2日目の午後、持別料理のなかから饅頭を撰び、折箱につめてサモイロフのところへ持参した。
見たことのない菓子を前にして、彼は目をまるくした。強いていえばロジヤ料理にあるピロシキにでも相当する。
「ヤポンスキー・ピロシキ(日本式ピロシキ)ですよ。皆がとても喜んでいます。日本式の菓子がどんなものか、まあよろしかったら召しあがってみてください」
饅頭といっても、中昧はえんどう豆のあんこであった。
彼はウオットカを御馳走してくれた。コップの底に2センチくらいの量であったが、咽喉から胸にかけて、焼けつくように強烈だった。
休みが明けると、また作業に明け暮れる毎日である。
2、3日して私は、金庫と私物品庫の鍵を失っていることに気がついた。
作業の成績つまりノルマの遂行成果に応じて、捕虜ながら若干ずつのルーブル貨が支給される。
しかし折角のその金も、奥地の収容所生活ではさして役に立たなかった。物を買いたくても1軒しかないささやかな売店には、ほとんど欲しい品物がなかったのである。従って、貰った金はそれぞれ個人の小袋に入れて預けられた。
その保管も私の仕事の一つであった。
心当たりの場所という場所を、隈なく探したが見つからなかった。夜になって、私はあの日のサモイロフの部屋を忘れていたことに気がついた。
8時を回っていたが、私は思い立っていってみることにした。シユーバーに身を包んで門を出た。
笠を大きくかぶった丸い月が、皓々と輝き、凍りついた真白な大地が、怪しい無気味な反射をかえして続いていた。発電所のモーターの音が、独りあたりの静寂に冴えて響いていた。
ワリンキ(フェルト製の防寒長靴)の雪を払って扉を開けた。
建物の入ロは全部二重にできている。第一の扉を入ると幅1間、長さ3間ばかりの板の間がある。ここは室内の物置のような役もする。
部屋の入口は、やや右のほうにあった。
私はノックをする前に、壁にはめ込まれた横の窓から、なかをうかがった。
何気なく白いレースのカーテンの隙間から覗き込んだ私は、アッと思わず小さな叫びをあげた。なんと異様な光景の展開が映じたことであろう。
八畳程の広さの部屋、その一隅にある寝台上に、正に一糸もまとわない女体が大の字形にうつ伏しているではないか。
いや伏しているのではない−−伏させられているのだ。両手と両足が、寝台の四隅に縛りつけられている。しかも枕かなにか、下に入れてあるらしく、臀部が一段と隆起して見える。
私は素手の冷たさも忘れて、壁にぴたりとにじり寄った。
サモイロフがいた。寝台の左隅に立っている。その右手に握られているものが、先日私がこの手でこの場所に届けた浣腸器であることに気づいた瞬間、えもいえぬ全身のすくみを覚えた。両膝がガタガタふるえていた。
それは、彼サモイロフの重大な怪しげな秘密を盗み見てしまった恐怖と、現に目撃しているあまりにも生々しい状景からかき立てられた本能的な昂奮との二つからであった。
とっさに身を飜していたならば−−恐らく私は、いまこうして奇クを通じてお伝えするような男には、なっていなかったに違いないと−−そのときの私は、10の怖しさに勝る12の興味が、勃然と身うちに湧き出していたことを想い出す。
素晴しい隆起を見せている二つの双丘、私の眼は焼きつくような凝視を伸した。
次に起されるべきサモイロフの必然の動作が、私をそこへ導いたのである。
窓硝子の曇りがいらだたしかった。わずか1、2分の間に過ぎなかったのに、サモイロフの細目が、あのときばかりは大きく見開かれて、一点を見つめている時の刻みのなんと長く感ぜられたことであったか。
ペーチカの焔がゆらゆらと輝きを増した。
サモイロフの影が、大きく石灰塗りの白壁に揺いだ。
彼がひざまづいて片膝を立てた。
胸をはだけた白シャツに包まれたまるい肩が、グッと前方に傾いた。
女体がそれを感じたかのように懸命にもがいた。わずかなゆらぎが、いましめの厳しさをみせた。女の頭がかかげられたが、髪にかくれた顔は、到底わからない。
私がわれに返ったのは、発電所の小屋の横にきたときであった。どうやって外へ飛び出したものか、まったく夢中であった。
我ながら大胆な行動が、にわかに恐しくなった。もちろん忘れものの鍵のことなど、念頭になかった。追われるように、斜面を駈け下りた。
衛門のくぐり戸にぶつかるように飛びこんで、始めて安堵の胸をなぜ下した。建物の灯が、やけにそらぞらしく感じた。
夢幻境から、現実へ引き戻されたような思いがした。
その夜は、いつになく寝苦しかった。夜警が知らせる拍子木の時の刻みを、いくつも耳にした。かたい藁布団の上で、寝返りを繰り返した。
白壁が、無心のペーチカのゆらぐ炎に照らしだされる。
私の眼底には、焼き付けられた映像が、反復して明滅した。
サモイロフが、なぜあのような行為をしたのか、その時の私にはまたくわからなかった。
女が誰であったのかも、知るによしなかった。事務所に勤める若いノルマ係の娘は、痩せぎすの身体だし、ほかの家庭の夫人が、あのようなことをされるとは、とても考えられない。浮浪者に近い女が、憐れな犠牲者になったに違いないと思われた。
シベリヤは古来有名な流刑地である。シベリヤ生まれの連中には、その昔流刑にあって、そのまま土着してしまった者の子孫が、沢山いる。
陸続きの流刑ではあっても、広大な大陸の一地方それも未開の酷寒な僻地に送られることは、大海の孤島に追われるよりも、遥かに厳しいことに違いない。
国政がまったく変わった現在も同様のことが行われている。
重罪に処された者は、強制労働収容所に叩きこまれるが、罪の軽い者や、或る期間収容所労働に従事した者は、一定区域内の居住という形式で刑期中ジベリヤ開拓を続けなければならない。
それはまさに「格子なき牢獄」といったものである。
連中は、直接の拘束を受げずにいられるというだけで、とてもその生活に保護保証を与えられるというのではない。私のいた奥地でもかなりの数を見ることができた。
女囚も尠からずいた。寒さと飢えに苦しんでいるこの種の女を、甘言で釣って連れこむのは、容易なことであっただろう。
よし後日彼女のロからその事実が暴露されたとしても、大した問題にはならないに違いない。
民度の低劣な奥地では、現行犯を抑えられない限り、明白な事実でさえも平気で白をきってすませられる。
夢中であった私は、確かめなかったが、女は完全に近いさるぐつわを、しっかりはめられていたに相違なかった。
必死に抵抗する女を、押さえつけて裸にむき、あのように理想的な形にしっかり縛りつけるまでの経過が、様々な姿で想像された。見られなかったことが、口借しかった。サモイロフが羨しかった。
翌日のサモイロフは、いつもの彼と、なんの違いも見られなかった。
伝票の順序に、炊事夫が秤に載せる粟やキャベツを、黙々と見ている彼の限は、いつものうつろな細目であった。私もさり気なく彼に対した。
幾日かして、浣腸器が返された。私の手は震えていたかもしれない。
胸の動悸を顔に表すまいと懸命であった。おたがいの秘密かあろうとは、彼と私のほかに誰がうかがい知れたであろうか。
私という人間のうちに、マニアの生命が誕生した。それはまったく一夜のうちに、いや数分の間に突如として生れ育ったのである。
私の身うちに、その種子のようなものがあって、萌え出でるときを待っていたのだとはとても思えない。
私の家は医者であった。
浣腸器などはもちろんのこと、数々の器具や、あの婦人科用の寝台まで、幼いときから見慣れていた。
診察室を覗き見して、叱られたこともあった。
しかしそれは、誰にでもあるような興味と、悪戯の域を出るものではなかった。
15の年から、およそー般社会と隔絶された特殊な環境で、厳しい集団生活を続けた私である。
それは、ソドミアの傾向を生む温床にあったとこそいえ、サディステイックな浣腸マニアになるようなものではないだろう。
私自身シベリヤの一夜を措いて、他に動機を求めることはできない。
復員して5年になる現在の私から、日毎年毎に、忘却の彼方へと遠ざかっていく異国の丘の回想のなかにあって、独り歳月を超越して、常に生々しく烈しい記憶を止めてやまない、あの夜の不可思議な力に、いまさら驚く私なのである。
(完)