子供たちが物心つきはじめると、母親に「赤ちやんはどこから生れるの」といって聞くように、そして、ある心理学者の報告によれば、胎生の秘密を知りたいとねがった少年が懐中時計をこわしてその中を見たように、私は、私の「A感覚の秘密」をつきとめるためには、私のお腹を切りひらいてその中をしらべなければならないと思いました。
性の秘密は、女性にとっては男性にとってとことなり体の内部へと秘められており、妊娠という事実によって、この内部への関心ははるかに奥深いものとなるのです。
男の方にとって、私の女らしく肉づきのよい、やわらかい体や、ゆたかに盛り上ったふたつの乳房や、うしろにぽっかりと挑のようなわれ目を見せて、その母性としての重荷をしっかりと受けとめるために、がっしりと大きく張った腰部などが、いかほど関心の的であろうとも、私の性感覚は、まぎれもなく、この内部のどろどろしたものの中に、錯綜し倒錯して存在しているのですから、私はこれらのものを、ときほごし、切りはなしていかないでは、私の「A感覚の秘密」をさがし出すことは出来ないのです。
この内部のどろどろしたもの−−内臓は私の胴の中におさまっています。私の胴はーつのふくろ、もしくは一つの箱といってよいかも知れません。それは上半分の肋骨という骨の箱でできており、下半分は骨盤というがっちりした骨のお椀の中に盛られています。
このお椀はうしろの方が高くなっており、またうしろ側は太い背骨が通っていますから、骨でかこまれていないところというのは、まえ側の下半分−−ここがお腹です−−と、肋骨のてっぺんと骨盤の底のところにぽっかりおいた二つの穴だけです。
この箱を骨組にして、あるところはうんとぶ厚く、あるところは比較的うすい肉の層が内臓をとりかこんでいるのです。
しかし私はどうしても下半分を問題にしなければなりません。というのは、下半身こそ、人間が他の動物と同じように性の営みをいとなむために必要な部分であり、妊娠出産と性の負担をより多くかけられている女性に特によく発達している部分であり、私の分析に必要ないろいろな大道具、小道具がそこにすっかりそろえてしまってある部分だからです。
私はまず、睡眠薬を浣腸されたゴム管をお尻につっこんだまま、だらしなく意識を失ってまないたの上にうつぶせにのびている羽村京子の体をうら返しにして、一ばん切りやすいお腹の方から切りひらいていくことにしましょう。
みぞおちのところからメスを入れて、肋骨の下のへりに沿って左右の脇腹まで切りさいていき、次に、腰骨に沿って骨盤のまえ側を恥骨のところまでえぐってしまえば、女性のジンボルである乳房をのこしたままお腹の皮と筋肉とがごっそりとれて、お腹の中があらわれます。
大部分の臓器はまだ白い、つやのある腹膜でおおわれていますから、このぶよぶよした大きなふくろをハサミで切りひらいて内部の臓器をすっかり出してしまわなければなりません。
ぐちゃぐちゃに一かたまりになっていますが、うねうねとまがりくねったおぴただしい腸管、細くてなめらかなのが小腸で、太くて凸凹していて、ひもがついているようなのか大腸です。大腸は体の右側の、虫様突起のついた盲腸から上にあがり(上行結腸)、お腹を横ぎって(横行結腸)左側でふたたび下におりて(下行結腸)います。
ぷくっとかわいらしくふくらんだ膀胱。上の方には茶褐色のグロテスクな大きな臓器−−肝臓がのぞいています。
肝臓になかばおおわれるようにして、何やら妙な形にふくらんだものがあります。これは胃袋です。
京子が体をもぞもぞと動かして何やら言いました。多分自分が解剖されていることも知らないで面白い夢でも見ているのでしょう。構うことはありません。腸間膜をひっぱりすぎて破ってしまわないように注意しながら、これらの邪魔になるものをのけて、その下に何があるかしらべてみましょう。
真中に何か珍らしい果物のような、かわいらしく美しい臓器が見えるでしょう。これが子宮です。両側にちっちゃなバラ色の卵巣が二つ、輸卵管でつながっています。知らないでいたら、これがそんなに大事なものだとは誰も気がつかないでしょう。
子宮の下は膣につづいていて、さっきの大腸のつづきがぐるっとまわって(S字状結腸)そのうしろにもぐりこんで(直腸)います。
その他には、輸尿管で膀胱と連絡している腎臓が、そら豆のような恰好をして背骨の両側についているのと、大きな血管が見えます。脾臓とか膵臓とかいうのもありますが、これで一応京子のお腹の中は分かりましたから、ひろがっている腸をーまとめにして、もとのところにほうりこんでおきましょう。
何も知らない京子は、まだよく眠っていますから、このお腹はもうしばらく開けたままにしておきましょう。目がさめて驚くところを見てやりましょうよ。
−−結婚まえのまだおとなしかったころのように、私はだまってたのしく彼の説明を聞いていたはずなのに、目がさめてみると、私はおふとんの中で夫の腕に抱かれていました。二人の間に横たわっていた羽村京子はどこに行ったのかしら。
お腹に手をあててみましたが別にどうもなっていないようです。頭の中を、さっき見た臓器の数々が一つーつうかんでは消えて行きます。
−−あたたかい日ざしの日曜日の朝でした。
でも、私が本当に解剖されるなんて、本当に夢の中でしかないことです。
私はひそかにそれをねがっていますし、そのことを考えただけでも興奮してしまいますけれども、しかし京子を解剖してみたって、きっと普通の女の人とそんなにちがわないでしょう。
もちろんよく見れば、多少はちがったところがあるかも知れませんが、体のしくみそのものは決してちがうはずがありません。こんなことなら、はじめから解剖学の教科書でも見ればよかったのです。
人間の内臓はいくつかの系統に分かれています。すなわち消化器系、泌尿生殖器系、呼吸器系、循環器系、脳神経系がそれです。
このうち最後の二つは大切なものではありますが、外部への通路をもたず、従ってそこから外部へものを出したり、外部から入れたりすることはありません。
それはいわば時計のような正確さで、他のものにくらべてはるかに規則正しく動いています。
呼吸器は口によって外部と連絡していますが、出し入れするのはたんに空気にすぎず、口のある場所は私たちにとって関心のうすい、お上品な体の上半身についています。
これもかなり規則ただしく動きます。
消化器と泌尿生殖器とはこれに反して、私たちが見たように体の下半身の中につまっており、いずれも下半身に開口部をもっています。それらの器官が出し入れするところのものは、それぞれ、人間の二大欲望である食慾と性慾とに関係しているのです。
もちろん内臓は皮膚のような感覚をもちません。いわゆる臓器感覚というのは、体の表面が感じるような、痛いとかかゆいとかいうようなはっきりした感覚ではなく、正確な部位も性質もわからない漠然とした感覚です。
しかしこの感覚は、お腹がすいたとか、便意をもよおしたとかいうような、また性的な衝動を感じる場合のような、きわめて重要なものです。
しかしその部位や性質がはっきりしないために、しばしば混同され、とりちがえられます。人間の二大欲望に関係した臓器がごっちゃまぜになって実にお腹の中に入っているのです。
お腹の中はまた、胸のように箱でかこまれてきちんと形がきまっていないので、臓器はお互いに移動し入りくみあってその形をかえるのです。これらの臓器は普段は規則ただしく動いていますが、時としてひどい変調をおこすことがあり、その変調の幅もずっと大ぎいのです。
私たちが「お腹が大きい」というとき、それは二つの意味をもっています。一つは充分食べて満腹している状態を云いあらわすもので、もう一つは妊娠している女性のことをいうのです。
妊娠というというまでもなく子宮に子が宿るのですが、子宮はむかしでは女性の極端に走りやすい感情の根源だと考えられました。ヒステリーという言葉がギリシャ語の子宮という言葉から来ていることがこれを示しています。
しかし、ヒステリーは何も子宮に限ったことではありません。腸もまたヒステリーをおこすのです。これは子宮のまだ充分に成熟していない、少女によく見られる現象です。学者のあげている例を見てみましょう。
「五歳女、離乳期から下痢または便秘を繰り返した。二・三日便がないと浣腸を試みるが、昨今は浣腸をしなくては排便がなくなった。
母は肥満した脂肪の多い人で母にも頑固な便秘があり、五・六日に一回排便かあり、便が固くて腹痛を起こすことがあるので、時には自分の指で掘り出す程であるという。……」
「便秘の訴えで入院した少女に下剤を与えるとよく利き、しまいには無効量でも下剤だと言って与えるときいた。……」
「頑固な便秘によって大便失禁を生じるまでになり、手当てによって総量3キログラムの大便を出した12歳の学童の実例……また神経性便秘によって、遂には吐糞症状を起し、開腹手術をしたが何の異常もなく、転地寄宿によってなおり家庭に戻ると再発し、再び1年間の転地寄宿によって今度は家庭に帰っても全治した著しい小児の例……脱糞は神経質小児にとっては、はなはだつよい関心の対象であることを思わせる」
これは木田文夫先生の『虚弱・病癖児童の教育』という本から引用したのですが、このようなはげしい腸のヒステリーがはたして性的なものと関係がないと言えるでしょうか。
この場合、消化管の優位は圧倒的です。それは、奥の方におさまった比較的小さな生殖器にくらべての、腸のおびただしい分量がすでに示しています。
このお腹の中にーぱいつまったもやもやしたものは、うずまき、にえくりかえって突破口をさがし求めます。それと同時に人間は外から、この性慾−−食慾の殿堂の内部への入り口をさがしているのです。骨でがっしりととりかこまれ、ぶ厚い肉のついているところは駄目です。骨のない、肉も出来るだけうすいところを選ばなければなりません。
それは二つあります。一つはさっき羽村京子を切りひらいたお腹です。もう一つは両脚の間、うしろのわれ目から前にぬける線、骨盤の底の穴の真中を走っている溝です。
A感覚を性的なものに結びつけて解釈したフロイトは三つのことなった性感を区別しています。
ロ唇、尿道、肛門にそれぞれ代表される性感がそれですが、私はそれぞれ、oral, urethral,analの頭文字をとってO性感、U性感、A性感とよびたいと思います。
そうすると、もう一つの一そう直接的な言い方であるV感覚、P感覚、A感覚のトリオとの問に、
O性感−V感覚、
U性感−P感覚、
A性感−Å感覚、
という対応関係が生じます。
このフロイトの概念を用いることには次のような利点があります。つまり、V感覚、P感覚、A感覚の組み合せでは、女性にはV感覚とA感覚だけしかなく、男性にはP感覚とA感覚だけしかなかったのに、O性感、U性感、A性感、の組合せでは、女性にも男性にもそのどれもがそろってあるということ、しかもO性感の位置をそのままV感覚の位置に置きかえれば、(男性ではこの置きかえが出来ませんが)、女性の場合には三つの性感がすべて下半身の一つのところに集まってしまうのです。
女性の性感を考える場合でも、男性のそれを考える場合でも、この三つの性感をすべてとり入れて考えることは必要なことだと思うからです。
いろいろな学者、たとえばヴアン・デ・ヴエルデも、体の開口部の周囲が特に性感の強い部位であることを指摘して、直接に性的な部位の外に、肛門のまわり、口のまわり、鼻や耳のまわりなどをあげていますが、このうち特に重要な肛門のまわりと口のまわりとがいずれも消化器の開口であることを注意していただきたいと思います。
しかも、口は食事だけでたく、呼吸や会話にもつかうところですし、殊に決定的に重要なことですが、それが上半身の、衣服に被われない顔にあるということは、口の性感をすっかりきれいごとにしてしまって、性欲にまつわるあらゆる秘密的性格をそれから奪ってしまうのです。
肛門の位置は決定的に重要です。それは、A性感の開口部として、O性感やU性感の開口部とすぐ隣あわせになっているばかりでなく、開口部から一歩中へ入っても、器官が隣接しているという関係は失われず、さらにこの関係は、私たちがさっき見たように、性慾 食慾の最深部である、もつれあい、入りくみあった腹部内臓にまで及んでいるからです。
長い間とじこめられている男の囚人は、正常な性の解放が妨げられているために、どんな穴でもただ穴さえ見ればひどく興奮するようになるということを、何かの本で読んだことがあかますが、私たちがここで問題にしているのも実はこの穴なのです。
開口部というのはひらたく言えば穴のことです。人間はこの穴を通じて食物をとり、栄養を吸収します。残ったかすは別の穴から体の外に捨てます。
はじめの方の穴は、多くの目的に兼用にもちいられるきれいな穴です。ところが、あとの方の穴は体のうしろについていて、ほんの近くにとんでもないもう一つの穴があります。
その穴はうしろの穴とちがって、出す方専門ではなく、一つの穴で入れるのと出すのと兼用になっています。
うしろとまえとのこの二つの穴は体の外ばかりでなく、中でも密接に隣あっていることは私たちが見てきたとおりです。
混同、そして倒錯が、これらの穴、特にうしろの穴にあらわれることは不思議ではありません。
それではこのまえの方の穴はどういうはたらきをするのでしょうか。それは子孫をふやすために子供を生む穴なのです。
しかし誰も知っているように、子供は女だけで生めるものそはありません。男の体から、あるもの(精子)をもらって、それを女の体の中にあるもの(卵子)と結合することによってはじめて子供を生むことが出来るのです。
妊娠そして出産というのがこの穴の大きな役目ですがそのためには男の体から精子が女の体の中に入らなければなりません。そしてこの入り口もまたこの同じ穴です。
人間が受胎し、妊娠し、出産するためには、食物の場合と同じように、機械のようにひややかにつとめをはたすのではありません。
食慾、そして性慾が、入間のいとなみの原動力なのです。そしてこれをうらから支えるものは、人間の感覚、肉体的な快感なのです。
このことは性慾の場合は、食慾の場合よりもいっそう決定的です。人間は食慾をみたさないでは一日も生きて行くことが出来ませんが、性慾はそうではありません。
また、肉の快楽といえば性慾の方を指すことでもわかりますがこれは、食慾は体の上の方にある口で満足されるために、専門の器官である舌はもとより、鼻とか、目とか、いわゆる五官という分化した、程度の高い感覚器官の助けをかりて、快感を分析してしまうからでしょう。
性慾の場合でも五官が積極的な役割をはたすことはヴアン・デ・ヴエルデも書いていますが、それはただ副次的たものにすぎず、性的な決感は、非常にはげしいけれども極めてわけのわからない、ただとても気持がいいとでも言うより外に形容のうのないものです。
このわけのわからない感覚は、すぐにでも、わずか二・三センチしかはなれていない、すぐうしうにある穴に侈ってくることが出来るように見えます。
ところが、この、まえの器官のいとなむ妊娠、出産というはたらきを、この、うしろの器官はどのようなやりかたで代理して行うことが出来るのでしょうか。
女の宿命とまで考えられる、この妊娠という事実、この残酷な、動物のような役目こそ、A感覚のあらゆるゼンマイをくるわせ、京子のお腹の中にぎっちりつまった腸をひっかきまわし、もつれさせて、京子のお腹の中をひっくりかえしてしまうものなのです。
妊娠、出産という、女の体の一ばん大きな役目は、動物のようにあさましい、そして秘密にみちたものです。
それは女のかくれた本質であり、いろいろな気昧のわるい姿をした妖怪につきまとわれています。
子供たちの、「赤ちやんはどこから生れるの?」という質問はやがて「どうして赤ちやんは出来るの?」といういっそうすすんだ疑問になってきます。このあとの方の疑問は未開人にとっても大きな謎だったらしく、数々の荒唐無稽な解釈を生み出していますが子供たちも、これら未開人たちがやったのと同じように、自分たちの知っているかぎりの知識をふりしぼって、この二つの疑問に彼らなりの解決を与えるのです。
多くの神話や昔ばなしの中に出て来る蛇や狼や犬など、これらの動物が人間の女をはらませたという、しばしば偉人の出生にまつわる怪奇な物語りにも示されているように正しい知識が与えられていないところでは空想がその代わりをする、というごく当りまえの道すじがここでもたどられたにすぎません。
私たちは、岡田寅次先生の『思春期の性意識』という本の中の、主として中学3年生の女生徒を対象として行った調査の報告から、この道すじ(それは子供たちの空想だけではなく、多くは両親や先生などの暗示も入っているでしょう)をしらべてみろことにしま
しょう。
1、「どうして赤ちやんは出来るか?」(精子はどこから入るか?)
1、31名のN中女生徒のうち、正解は15名、2名が肛門と答えています。
その翌年の107名の調査では正解10名に対し、こうもんは4名です。数からいうとそんなに多くありませんが、これは、誤解の多くが性交の秘密を知らず、極めて罪のない、無邪気な空想をもつているためで、精子は口から入るという解答の多いことがこれを示しています。その理由として、岡田先生は、
「口は穴であるという理由が第一、その証拠に、精子進入口を、鼻の穴・目・耳・こうもん・ひふの毛穴に求めている解答が毎年出て来ることである。……」
「第二の理由は、口から食物をとって腹に送るということから口を精子進入口に選ぶらしい。……」
「第三の理由は、口は呼吸をする、……」
だから男の口から女の口の中にいきといっしょに、または接吻とともにふきこまれるというのです。
第一の理由をのぞいては、いずれも子供らしい、たわいもない考えであることがわかります。
また第一の理由にしても、口や鼻や耳というのはどうでしょうか。上半身にあるこれらの穴から入って来るというのは、やはり子供らしい、無邪気な考えではないでしょうか。
下半身にともなう、あのはずかしい、うしろぐらい感じにくらべてみれば、このことは明白だと思います。
私たちは「A感覚の秘密」という特殊な問題をあつかっているのですから、肛門という答は、数は少なくても重要な空想なのです。
ここに肛門性交交へのいとぐちがあります。
2、「赤ちやんはどこから生れるか?」(胎児はどこから出るか?)
「出産に関する知識の誤解答は……大別するとおなか(おなかがわれて出ると説くものを含む)をさすものと、おしり(こうもんと記述したものも含む)をさすものとになる。……」
お腹から生まれるとするものについて、
「……この知識で実際見たというのがあったが、それはお風呂で母親(あるいは他の婦人)のおなかに筋かあるのを発見し、実際にみたと確信をもってのべているのてあった」
「……おしり、こうもん等からうまれると解答しているもので、……実際見たというの……は動物のお産を見ているもので、他に映画(お産の映画)を見て「おしり」と答えているものがいた。陰門(腔口)と肛門の区別はなかなかむずかしいらしい。……」
夜間高校生(女)37名に対する調査では、
「知識内容は肛門、子宮が多くなってくる。しかし相変わらず「おしり」と書くものがいる。中学3年生でお産の映画をみて『おしり』と答えているのがあったが、高校2年で、映画をみましたと書き解答はやはり『おしり』となっている。中学3年と著しくちがう点はおなかと書く者が少くなることで、……」
しかし、そこにのっている別の高校女生徒についての表を見ると数からいえば肛門よりもお腹の方が相対的に多く、腹、腹を切る、腹がやぶれる、なかには臍(へそ)、などと書いています。
お腹から赤ちゃんが生まれるという空想は、だんだん下の方に移って行くものでしょうが、心の奥底では決してすっかりなくなってしまうものではないようです。
おまけにお腹には穴がありません。というより、お臍の穴は母親のお腹から出てからはふさがってしまってしまっているので用をなさないので、お腹から赤ちゃんが出るためには、お腹を切りさいたり、破ったりしなければなりません。
この空想が決して消えさるものでないことは、妊婦が死んだ場合だけですが、帝王切開によってお腹から赤ちゃんをとり出すことは、ずい分古くから行われていたこととか、切腹ということに関する根づよい関心が大人たちの間にあることでもわかります。
赤ちゃんは精子のようにごく小さな、目に見えないようなものでなく、まえの場合のように鼻や耳や、まして毛穴から生れて来ると考えることは出来ません。
そして、妊婦を見れば、その大きなお腹の中に赤ちゃんがいるということは明白ですから、そこから出て来るためには、骨のない、やわらかいところを選ぶより外に道はありません。
こうして、二つの方向、お尻とお腹とがうかんで来ます。
おしりの方は、本当に赤ちゃんの出て来る道がすぐそのうしろにある道と混同されるのですが、これを腸管出産空想 fantaisie cloacale とよぶなら、お腹がわれて出て来るという方は、帝王切開空想fantaisie cesarienne と名づけていいかも知れません。
この場合はもちろん、お腹は切腹の場合のように横にわれるのではなく、この調査の中の少女がお風呂の中で母親のお膜に見た筋のように、縦にわれるのでなければならないのです。
(編注:cesariornne のc次の e はアクセント記号(アクサンテーギュ)つき)
少女たちが女性として成熟しはじめるとき、自分の体におこって来るいろいろな変化に気づいて、人知れず顔をあからめるものですが、このような体の変化の一つは乳房は強い性感をもっていながら開口部でもなく、休の下半身にもついていませんが、上半身にあるとはいっても顔のようにむき出しになっているのではなく、衣服に被われています。
思春期の乙女たちは、このうらはずかしい、人に知られたくない体の秘密を、注意ぶかく人目にふれないようにかくすものです。
それがあまりにも直接的に性的なものを連想させる下腹部にないということは、かえってこの器官にロマンチックな美しさを与え、女性のシンボルとして芸術家たちによって誇示されることになりましたが、この体の変化が、同時に少女が母性になるための体の変化であり、妊娠、出産、育児という女の体の一ばん本質的なはたらきにむかって、女体を完成させるためのものであることこそ重要なことだと思います。
女性のシンボルとしてのふたつの乳房は、妊娠という事実が女体のあらゆる構造を支配し、子をはらむことこそ、女性のあらゆる秘密がそこにかくされている窮極の目的であることを、何よりもはっきりと物語っています。
妊娠した女性の美、妊婦の満ちたりた美しさに多くの男性が心ひかれるのも当然のことでしょう。
想像妊娠という病気(?)をご存知でしょうか。
妊娠を非常につよくのぞんでいる女性が、本当は妊娠していないのに、メンスがとまり、お腹がだんだん大きくなって、本当に妊娠したのと同じようにお腹の中で胎児が動くような気がしたり、ひどいのになると10カ月にまでなって陣痛さわぎをおこしたりすることもあるそうです。
もちろんこれはヒステリー性のものでしょうが、かえって、女性の妊娠に対するぱげしい渇望を最もむき出しの形であらわしているとも言えましょう。
子宮外妊娠というような肉体的な病理現象でもなく、純粋に精神のやまいとして起るこのような現象は一体どういって説明したらいいのでうか。
お腹が本当にふくらんで来なければならないのですが、これは腸管が膨大するのだといいます。
そして、この異常に膨大した腸が動くのを胎児の運動だと誤認するのです。
腹部内臓の間では、生殖器がはたすべくしてはたしえない役割は、消化管が代わってはたさなければなりません。
離れて行く男の心をつなぎとめたいとねがった女が、窮余の策として、自分で自分のお尻から腸の中に空気を入れこみ、いつわって妊娠しているように見せかけたという話も、同巧異曲の思いつきに出ずるものでしょう。
混同され、倒錯された妊娠の秘密は、実に、腸が子をはらむということの中にあるのです。
お尻の穴がそのまえにある穴と混同されるとき、直腸はそのまま膣になり、その上につづく腸の部分が倒錯された子宮になることは明白であるからです。
もっぱら精神だけの作用によって腸が子をはらむということは誰にでも起りうる現象ではありません。
空想は現実にひきもどされねばならず、現実にひきもどされることによって、それは空想として完成するのです。
現実には、腸の中に多量の液体を注入して、実際に腸管をふくらませ、それによって膨満した腹部と、同時に内部から圧迫される体感をつくり出すことが出来るのです。
液体を特に選ぶのは、空気にくらべてはるかに大きいその質量感を好むからです。
2リットルも3リットルも、時には4リットル以上もの液体によってふくらまされたお腹は、なしくずし的にだらだらとお尻から出してしまうのではなく、逆に、抜けてしまわない位の大きさに直腸内でふくらまされた球が内部からしっかりと出口をふさいでしまうことによって、妊娠の空想が完成されるのです。
下の方の出口にふたをしてしまった以上、残る出口はただ一つしかありません。
羊水過多症にかかった妊婦のように水分ばかりでぶくぶくにふくれているお腹は、帝王切開の手術によってしか赤ちゃんを生むことが出来ないのです。
ちょうど骨盤がせまくて胎児がそこから出られない場合には腹壁を切りひらいてとり出さなければならないのと同じことです。
同じことを男の体に対して行った場合、デカメロンの中に出て来る「はらみ男」の空想が実現されるといえましょう。
しかし、はらみ男の空想はどことなく滑稽な感じがします。それは現実的ではありません。
女の体に適用してこそ消化管によって妊娠するという倒錯が妖しい現実感をもって来るのです。
胎生の秘密を知りたいという願望が、その女の腹を割かせ、女の、みにくくふくらまされた腸をとり出させます。それとともに、帝王切開によって胎児がとり出されるという空想が完結されて、女体のかくされたはたらきのすべてが、消化管によってなしとげられるという倒錯した秘密の全貌が明らかになるのです。
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お腹が縦にわれて、そこから赤ちやんが出て来るという空想が、子供らしい、無邪気な思いつきから出たものであったように、そして実際に行われた切腹がそのまま直ちに死を意味したように、腹を割かれ、解剖されるということは現実にはとうてい起こりえないことです。
それは夢の中でしか実現されることのない、はかない空想にすぎません。
空想であるがゆえに、それがどんなに自由で奔放な姿をとって、ありとあらゆる奇抜なアイディアがそこではばをきかせようとも、それは満たされえない願いであり、時には荒唐無稽なあの世の物語りにすぎないのです。
その倒錯した色情のはけ口をもとめて、羽村京子がどのように狂おしい空想にむなしく身を委ねるかを、一つ見ていただきたいと思います。
空想の中で京子は一人の女スパイになります。その女スパイは重要な秘密の文書をもって、それを敵に見つからないように味方のところに届ける任務を与えられます。
その文書は、決して溶けない、小さな金属製の容器におさめられて、京子の口から呑みこまれます。向こうについたらすぐ京子は腹を割かれて、それをとり出されることになっているのですが、かわいそうないけにえである京子はそのことを知りません。
それだけでも大変ことですが、京子は運わるく敵の憲兵につかまってしまうのです。すっかり脱がされた衣服は一本の糸にまでときほぐしてしらべられ、体のすみずみの、ものをかくしていそうなところはくまなくしらべられるという、厳重な身体検査をうけます。
肛門鏡とか、子宮鏡とかいうような器具までもち出して体の中の、外から届きうるかぎりのところはあらゆる手段をつくしてしらべられるのですが、もちろん休の奥深くかくした密書は出て来ません。どうやら私のもっている文書は一刻の時も争う重要なものらしいのです。
敵はますますいきり立って、あらゆる拷問を加えることによって自白を強要しますが、私はどうしても白状しません。
「この女の腸の中をすっかり洗い出してしまえっ」
私は下剤を拒否しますので、猛烈な高圧院腸をかけられます。とつぜんお尻にはげしい痛みを感じるや否や、どんどんと水が注入されて来て、急速に腸壁がおしひろげられ、みるみるうちに下腹が、ぐ−−ぐ−−ぐ−−ぐ−−っと張って来るのがわかります。
たちまちものすごい勢いで腸管が怒張し、下から胸をつき上げて、私は思わずガーッとにがい汁を口から吐き出しました。
お腹は、なさけなくふくれあがってはりさけるように苦しく、身うごきする気力もありません。入るだけ入れおわると、今度は上からお腹を力ーばいにおさえつけ、もみくちゃにして、中に入れた水を早く出してしまおうとあせるのです。
私はあまりの苦しさに生きた心地もしない位ですがある時はいきおい余ってジャーッとはげしく、ある時はだらだらと流れるようにお尻から水が出て行きます。
それでも密書は出て来るはずがなく、今やこの倒錯した人間ポンブのなぐさみにたけり狂った男たちは、2回、3回とこれをくりかえしました。
「ようし、こうなれば腹を割いてみるまでだ」
私は台の上に蛙のようにあおむけに縛りつけられ、またしても高圧浣腸をうけました。
しかし今度は出してしまうのではなく、入りきったところで直腸内にうんと強靭なゴムの風船を入れ、それをそこでふくらまして水が一滴もこぼれないようにしてしまうではありませんか。
男たちは京子の腹を、みにくく蛙のようにふくれ上がったままで切りさこうというのです。
しかもいつでも尋問出来るように下半身だけを麻酔して意識が明瞭なままでお腹を割こうとするのです。
何ていう残酷な思いつきでしょうか。
怒張しきった腹部のまんなかにメスがあてられました。
みぞおちから下腹部まで一文字に切りさかれた大きなさけ目からフットボールのようにふくらんだ太い大腸が、はげしい勢いでボコンと首をもたげるようにとび出して来ました。
つづいて、ぼこり、ぼこりと、まるで海の底にすんでいる巨大な蛸(タコ)の怪物の脚のようにうごめきながら、次から次へと頭をもたげて来るのです。
私自身の腸とはいえ何という気味のわるい姿でしょう。
気がとおくなりそうな私にひきかえ、男たちは歓喜の叫び声をあげましたが、あまりのすごさにしばらくは手もつけられないでいるのでした。
やがで二人の男がお腹の中にメスを入れると、内側から器用にぐるっとまるくえぐりとって、お尻の括約筋のついたままの直腸をそっくりとり出しました。
他の男たちも手をかして腸間膜を注意ぶかく念入りに切りはなしながら、腸をその下の方からずるずると体の外にひっぱり出しはじめました。
「あった、あった。やっぱりもってやがったんだな」
密書は盲腸の虫様突起の中にはまりこんでいたのでした。小さな虫のようなその部分のもとが糸でくくられ、医者が手術のときにするのと全く同じやり方で、ぱちんとハサミで切りはなされました。
しかし私の拷問はこれですんだわけではなかったのです。若くて美しい(?)女スパイをなぶりごろしにするという絶好の機会にめぐまれた野獣たちは、すでに腸をひきずり出されて息もたえだえになっている私の体を、なおも徹底的になぐさみにしなければ気がすまなかったからです。
こうして地獄のような光景がそこにくりひろげられるのでした。
「さあ、思い切りなぐさんでやるぞ」
腸をひきずり出してそれを丈夫なクサリにかえ、それで手足をしばってしまうというようなことが西洋の神話によく出て来ますが、それはいずれも頑丈な体格をした男のことで、相手が女では面白くないと思ったのでしょう、男の一人がやにわに私の腸の末端をとり上げると、その上端はまだ私の体についたままなのに、お尻の括約筋をひらいてその中にゴム管をさしこみました。
さっき私のお腹に浣腸した強力なポンプで、またどんどん水が入れられて行きます。
お祭りで風船を買ってもらった子供のように、すでにかなりの水でぶくぶくにふくれている私の腸をふくらむところまでーぱいにふくらましてみようというのでしょう。
ゴム風船をふくらましてところどころ糸でしばったように、一定の間隔をおいてむくむくっとくびれている太い大腸は、みるみるうちに大きくふくらんで来ました。
直腸の一番ふくれたところなんかは大人の頭よりも大きいのです。大腸と小腸との間は一応逆流をふせぐようになっていますが、はげしい水の圧力におされてだんだん上の上へと小腸が、ぶくり、ぶくりとふくらみすすんで行くさまがよく見えるのでした。
男たちはもう私の腸の大部分をとり出していて、これ見よがしにそれを台の上にならべて見せるのです。
こともあろうに自分の腸がこのようなグロテスクななぐさみに供せられているのを見ていなければならない私の、耐えようにもたえられない気持を何と思っているのでしょうか。
身長の何倍もある長い腸がまるで標本のようにまっすぐに伸ばされて、目のまえに幾列にもなって陳列されているのです。小腸がその上端までふくらみおわると、男たちはそこを糸でむすんで胃袋との間をハサミで切りはなしました。私の腸の全部が、完全にふくらまされて台の上にのったのを見ながら、およそ腸と名のつくものが体からすっかりなくなってしまった私は、もはや精根つきはててしずかに息のねをとめてしまうのです。
けれども最後にもう一つ、この物語が完全な形で完結するためには、ここに残った女スパイの死体が、敵の将兵たちによって、お魚かにわとりのように、あるいは屠られたけもののように、きれいに料理されて食べられてしまうことが必要です。
羽村京子の肉体はそして特にその生命をつかさどる枢要な部分である内臓諸器管は、こま切れにされどろどろに噛みくだかれて他人の消化管の中に入りそこで消化吸収されて、残りのかすはお尻から出されてしまう−−京子はそのようなことを欲しているからです。
その場で直ちにひらかれる宴会の食べ物としては、京子の内臓−−臓もつだけで充分ことたりるでしょう。
脳漿はなまのままでお酒のさかなに、子宮や卵巣はこりこりしたおいしい酢のものに、その下の、下腹部の、やわらかい肉片はそのままおさしみになるでしょう。
ほかほかと湯毛の立った肝臓は大きな皿に盛られ、舌はビフテキに、心臓や腎臓や膀胱はごった煮の部類に入るでしょう。
そして肉はすべて、ソーセージやハムになって、とり出された長い腸の中に詰めこまれてたくわえられます。
太ももや、腰や、背中や、胸からはやわらかい肉がたっぷりとれるでしょう。
こうして、あとにはただ、うずたかくつまれた白骨の山だけが、女スパイ−−京子のものとして残るのです。
もう一つの食べられない部分である、剥ぎとられた京子の全身の皮膚このうす気味のわるい人間の皮は、きれいになめされて、羽村京子というこの20世紀のウイッチ(魔女)の、ふしぎな倒錯のよろこびをしるした数々の告白記や、京子がその倒錯した性慾をみたすためにえらんだ数々の淫らな姿態をカメラにとらえた何冊かのアルバムを、装釘するために役立つからです。
7
男女の性的結合をユーモラスに言いあらわすのに、フランス語では浣腸−−Iavementという言葉を用いるそうです。
V感覚の所在とA感覚のそれとをわざととりちがえたこの言い方の面白味は、私たちのまわりで、いつまでも子供の出来ない夫婦のことを、「あの人たちはうしろの穴とまちがえているのじゃない?」などと言ってくすくす笑ってみせる、あの淫らな感覚と通じるものがあります。
けれどもこのなにげない、ふざけた表現は、女体の生理のかくれた本質をずばりと言いあてているのではないでうか。
このたわいもないA感覚の第一歩から出発して、私は、私の倒錯した性慾を満足させるために私の消化管を使用して−−というよりむしろ、その本来のものでない役割をそれに強いることによって、それを酷使して来たのでした。
私が、私の体の諸器官にその生れつき以外のはたらきをむりやりに強制したということ、そのことから私の、あらゆる、自然に反した人工的なトリックがうまれ、この、人間の狡智によって人為的に狂い咲かせられた温室のカンナは、自然の花の及びもつかないような、毒々しいが、しかし甘美なその香りでもって、しっかりと私の体と心をとらえてしまいました。
しかしその花に、大自然の庭に咲く野生の花のたくましさを求めることは出来ません。温室のカンナは、人為の花のかなしさで、密閉された、あたたかくて湿度のたかい空気を必要とするからです。
そのように私は最後には空想の中にあそび、私の顔の中の閉ざされた空想の世界の中で、思う存分に不倫な栄養をむさぼり吸ったのでした。
空想は空想を生んで、とめどもなく倒錯の、甘美な、怪妖な世界をくりひろげて行ぎます。
現実の中に生きながら、この夢とうつつとの交錯、そして倒錯の中に生きる道を見出して行かなければならないとは、何という因果な宿命でうか。
羽村京子は、その倒錯したA感覚のゆえにこそ、おそろしい妄想の荒野の中を、気がくるったように死ぬまで駈けまわりつづけなければならないのです。
京子のA感覚は奥深く、肉体の最深部までむしばんで、あられもない言動に京子をかりたてるのです。偉大な人生の伴侶であったゲーテは次のようにいってなぐさめていますけれど−−。
一切の無常なるものは、
只影像たるに過ぎず。
かつて及ばざりし所のもの、
ここには既に行われたり。
名状すペからざる所のもの、
ここには既に遂げられたり。
永遠に女性なるもの、
我等を引きて往かしむ。
−−「ファウスト」
(未完)
(『奇譚クラブ』昭和30年2月号)