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繩の對話−−サディストの夫とその妻 杉村 健

「ねえ、今日本箱を掃除したらこんな画、出てきたわよ」
「うん」
「こんな、女の人が縛られたりして、これなんなの」
「あ、お前には関係ないよ」
「関係ないって、でもおかしいわ、本の向こう側に大切そうに隠してあったんだもの、なんなの、これ」
「そんなもの、どうでもええやないか」
「なぜ隠すの、ね、言ってよ」
「男だけのことで女には関係ないよ、なぜそんなに聞くんだい」
「でもおかしいやないの、こんなに縛られたりして、しかも裸で」
「いやに気になるんだね、お前にも興味があるのと違うか」
「そんなことないわ、でもちょっと気になるわ」
「気になるというのは興味があるからだよ、心のどこかをくすぐるような、そっと見ずにおれないような何かがあるんだよ」
「そんなことないわ、好奇心よ、それよりあんたどうなの、大切そうにしまっておいたりして、そんなもの破って捨ててしまいなさいよ」
「駄目だよ、そんなことしては」
「なぜそんなに大切にするの」
「大切にするわけじゃないが、捨てるのは惜しいよ」
「なぜなの、こんないやらしいもの」
「いやに気になるんだね、お前も好奇心以上の興味があるんだろう、お前が興味を持つのと同じ程度にわしにも興味があるんだよ」
「駄目よ、うまいこと言って、ごまかさないで、はっきり言ってよ」
「なぜ、そんなにひっこく聞くんだい」
「でも変やないの」
「変なことないよ、女の人が縛られたりするのは映画や小説にいくらでも出てくるし、別に珍らしいことじゃないよ、変やと言うのはやはり興味を持ってるからだよ、誰かの本に男にはサヂズム、女にはマゾヒズムの傾向がある。
 つまり男は女を責め、女は男に責められることに一種の快感を覚えると書いてあったが、それなんだよ」
「そんなことないわ、責められて気持ちがよいなんて、しかも、こんなに裸にされて縛られて、何がよいもんですか、そりゃ、男の人はそんなこと好きかもしれんけど−−あんたは変態よ」
「そりゃそう言えば変態かもしれんが、誰でも程度の差こそあれ、多少はこんな気持ちがあるんだよ、その証拠に昔から歌舞伎ではよく女が責められるところがあるが、そんな責め場は濡れ場、殺し場、ゆすり場と並んで芝居の主な見せ場になっている。
明烏(あけがらす)でも皿屋敷でも浦里やお菊が荒縄で縛られて実に残酷に責められる、作者が常にそういう場を出すのはやはり何かお客の側にそれを求める気持ちがあるからだよ、映画でも同じことで特に時代劇に多いが、よく美しい女優が後ろ手に縛られる、やはりお客の好みをねらってのことで、映画の方は歌舞伎の古い美しさに比べてずっと写実的で迫力があるからお客の興味は一層深いわけだ、昔の歌舞伎から今の映画迄ずっとそんなやり方が続いているのは、それが男女ともお客に受けるからで、お客の心の底にサヂ、マゾの気持ちがひそんでいるからだよ」
「で、あんたもそうなの?」
「まあ、そうだね」
「そうだなんて、でも、わたしはそんなことないわよ、男の人はそうでも女の方はそんなことないと思うわ」
「いや女も同じだよ、昔から女は男以上に芝居好きといわれている、その芝居にはたびたび責め場が出ているから女も男と同じということになるよ」
「あんた、いつからそんな興味持ち出したの」
「さあ、子供の時分にもあったね、一番古い記憶は小学校5・6年頃の映画、当時は活動写真といっていたが、お家騒動のような旧劇で美しい女中が奥庭で悪人側の女達に責められるところがあった、幾重にも荒縄で縛られて打たれたりつき倒されたり、写真の両側にいる弁士達がそれぞれの役になって台詞(せりふ)の応酬をやる、随分長い責め場だったが子供心に強い印象を受けたね、高等科1年のとき見た『彌次喜多金比羅詣りの巻』にもたしか船室に若い女が縛られて監禁されていたのを覚えている、子供の頃から随分活動写真を見ているのでいつの間にかそんな場面に興味を持つようになったね」
「そんな気持ちから、こんな画を蒐めるようになったのね」
「そうだね、自然、小説でもそんなところは面白いし、そんな挿画でもあればとっておくようになるさ」
「そしたら、この他にもっとあるんでしょう」
「全部残しておけば沢山にもなるが、よいのが入れば、前のは捨ててしまうから、そうたまらんよ」
「そしたら、この裸やお腰だけで縛られてるのが一番よいというわけね」
「まあ、そうらしい」
「いやらしい、これ、いつ頃のなの」
「昭和4・5年頃のだろうね、この腰巻一つで床柱に縛られているのは下村悦夫の南紀州を背景にした小説で、お丹という女賊が捕えられて生身の的になるところ。
 この白人の女3人が真裸で木に縛られているのはサンデー毎日特別号のスペインの物語で、山賊共がこうして縛った女の全身に蜜を塗って虫責めにすることになっていた。
 この全裸で柱に縛られているのは子母沢寛の小説『天狗の安』のお八重で、後ろ姿で手首にくいこんだ繩がよく痛々しさを表して最も好きだね」
「まあ、こんなのが好きだなんて−−しかし変ね、その時分まだわたし来てないやないの、独身のときこんなもの蒐めてたの?」
「独身だから蒐めたともいえるさ。結婚すれば、その必要はないよ」
「なぜ?」
「なぜって、判るだろう」
「……独身のときは必要なの」
「……そんなこと、どうでもよいじやないか」
「言ってよ、それ、知りたいわ、結婚前のあなたのこと」
「それは男と女の生理の相違ということになるだろうが、男の場合みなぎりあふれる青春のエネルギーの問題ということになる、精神力で抑えるとかスポーツ等でまぎらわすとか色々体裁よくいわれているが、果たしてそうきれいにゆくものだろうか、そうゆく人はあっても大部分の人は適当に処置しているのではないだろうか、遊廓等の存在理由もその辺にあるわけだが、しかしその人の理性や経済がそうさせない場合はどうなるか、結局各自適当にまぎらわすということになる、そのまぎらわす補助の役目を、それらの画が果たしていたといえる」
「−−そのう、まぎらわさねばならないの」
「まあね、男は女と違うからね−−わしばかりしゃべらしてお前の方はどうなんだい」
「何がなの」
「その、女のマゾヒズム的傾向だよ」
「…………」
「……この画は捨てるんかい?」
「しまっておくわ」

(おわり)

(『奇譚クラブ』昭和30年2月号)

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