この手記は同性愛に貫き通した私の真実の告白であり同好の皆様に訴える心の叫びでもあります。
私は幾多の煩悶や懊悩の体験を経た末、今や先天的同性愛者であったのだと確信するに至りました。幾度かそれが環境に支配された後天的なものであり、いつかは正常なるものへ移行する時もあるだろうと無理にでも考えた事もありましたが、それは同性愛が異常であるという自己卑下の観念から逃れんとする自己欺瞞でしかあり得なかったのです。
自分の経歴を述べる前に先ず私の現在を紹介致します。私は終戦の年朝鮮より引き揚げ、郷里宮崎県庁に奉職、後昭和22年9月1日労働省開設、地方に労働基準局が開局せられた折、県庁より同局に転属、最近まで神奈川県の某労働基準監督署の第三課次席として勤務していましたが、私の男色癖を署長に知られ、そのために公務員不適格者として退官させられた者です。
生まれは大正5年3月30日、身長5尺3寸、体重14貫、中肉中背という所でしょう。
私の男色癖による解雇の経緯についてはこの性歴の終わりにおいて申し述べたいと思います。
私は郷里宮崎県の町では二番目に大きな旅館業を営む両親の下に、姉2人妹3人という女の姉妹ばかりの中のたった一人の男の子として生まれました。そして跡取りとしてまったくわがままに育てられました。
幼時の記憶はありませんが、その頃町では珍しかった三輪車を買ってもらい、資産家の子供しか通わない幼稚園に通わされた事を記憶しています。使用人も女中、板前あわせて10人位いたようです。
小学校に通うようになって、私は常に級で1、2を争う成績で、両親の愛はさらに私に集まったようでした。そのためか私は小学校を卒業するまで母と一緒に寝ていました。
それはたしか尋常4、5年の頃でしたでしょうか、私はふと深夜に目覚めて気付くと母がいないのです。そして私はその時隣の布団に同衾している両親を発見しました。その翌夜から何が私をそうさせたか今でもわかりませんが、寝る時は母と寝ても夜半にこっそり父の布団にもぐりこむようになっていました。
中学にあがっても、私は成績は常に1、2番でいわゆる秀才と呼ばれる組でした。中学2年の春でした。風呂にはいろうとして裸になった時私は自分の身体の異変に気がつきました。好奇心と未知の世界に対する憧憬はどんなに胸がはずんだ事でしょう。
それからは一番風呂をよして男の客が皆すんだ後からはいって風呂の中に浮いている大人の陰毛を集めては自分の前につけて楽しんだものです。それまで私はサルマタを使っていましたが、大人の使う越中ふんどしが使いたくてたまらず、誰にもわからぬようコッソリ父のふんどしを着用したものです。
もちろんそれにより自分も大人なみになった満足と先程述べました風呂の中で集めた陰毛がふんどしをすると落ちないからでもありました。
ふんどしをこしらえてくれという事は親にも恥ずかしくて言えなかったのです。
やはりその頃だったか、今少し以前の事だったか記憶がはっきりしませんが、私は父の箪笥の中から木製のそれは巨大な張形を発見しました。それを何に父が使ったのか知りませんが、私はそれを自分の前に下げふんどしの上からその木製の品を持ってあたかもそれがほんものの自分のもののように楽しんだ事があります。その他発見した枕草紙などに描かれている巨大な陽物を羨ましい気持ちで飽きず眺めたりしました。
私が真の同性愛を感じたのは中学4年になってからです。私は上級生から可愛がられる程の面相でもなかったのですが、中学1、2年の頃、2、3の上級生から抱かれたり、追いまわされたりした事はありました。しかし別に上級生に対して思慕の情を感じた記憶はありません。
話が前に戻りますが中学4年の時、3年に一木正義という少年が父の転勤によって私の中学校に転校してまいりました。その一木と寒い冬の夜、映画館の暗闇でヒョッコリ会ったのです。
一木は私を見るとニッコリ笑ってヒョッコリと頭を下げるのです。その頃映画は学生の入場は厳禁されており、生徒監にでもわかればきつい処分を受けたもので、好きな者は教師に見つからぬようにいろいろと変装し、館内でもなるべく隅の方に坐って、冬なら、あの頃流行したつりがねマントを頭からゴッソリかぶって観たものです。
もちろん上級生に見られても大変です。映画を観た事については下級生を見つけた上級生も学校に対しては同罪ですが、事が公にならないだけで、見つかった翌日は早速上級生の一団に呼び出しを受けて、ヒドイビンタ即ち制裁を加えられたものです。だから下級生は教師だけでなく上級生の眼も逃げねばならなかったのです。
私がそれまで館内で会った下級生は私と眼があうと、しまったとばかりコソコソと暗闇の中に逃げかくれたものです。私は性格上そうした下級生が誰であったかわかっていても、別に制裁を加えるでもなく、翌日学校で会っても別になじるような事はしませんでしたから、一木もこの人は話せる人だ位な好感を私に抱いていたのでしょう。
先程も申し上げたようにニッコリ笑って私に頭を下げたのです。私は人なつこいこの少年が下級生である事も知らなかったので、とまどって彼に近よると改めて私は「君は誰だっけ」と聞きました。
私の問いに対して正直に自己紹介する一木の少年らしさに、私は今迄味わった事のない不思議な気持ちを感じたのです。中学3年にして剣道初段という彼はいかにも精悍な感じでした。
3年と言っても彼は以前の学校で成績不良のため一度落第しているので年令は私と同じでしたが級が違ってみるとやはり彼は私にとっては年下の少年といった感じでした。
幸い彼の家は私の家から4、5丁も離れない近くであり、それから登校も帰宅も映画もそして日曜の休みの遊びも常に一緒でした。そして次第に私は熱烈に彼を愛するようになりました。ただ彼と一緒であれば良かったのです。ただそれだけで幸福でした。
登校は一緒でしたが、帰りは彼が剣道部の選手で毎日放課後2時間位は稽古のため残るので私もその間教室で本を見たりグラウンドで遊んだり、時には道場をのぞいたりして彼を待っては帰りも彼と一緒にしていました。県下の中等学校武道大会があって、彼が出場のため他の町に泊まりがけで行った時などは、何か空虚でたまらない淋しさにたえ切れず、私も後を追ってその町へ行き、選手と同じ旅館に泊まる事は許されないので、他の旅館に泊まって試合場に出掛けては一寸の間の逢瀬を心から楽しみました。
彼の家庭は父が官吏で家庭が厳格なため、小遣い銭も思うように渡らず、夜の外出もそう度々は困難でしたが、映画の変わる度にそれは週に2回位でしたが、先生の家に勉強に行くと両親をだましては、教科書を2冊くらい手にして来ては、まず私の家によります。私は小遣い銭にも不自由しませんでしたし、それに可愛いい彼のため映画だけでなく帰りは何かと飲食店で御馳走したものでした。そうした生活が三月も続いてやがて私は中学5年になりますと、家では、客商売ゆえ落ち着いて勉強出来ないからという理由で、あらかじめ自分で見つけておいた6畳に4畳半、台所という小さな平屋を父に頼んで私の勉強室として買ってもらいました。
食事は朝晩だけ家から女中が通って来て食べるように仕度してくれるのです。その他はまったく私一人で秘密の生活が楽しめました。これからの一木との生活を想うと胸も躍るようです。それからは映画の帰りは私の家に必ず寄って二人きりの楽しい一時を過ごして彼は私に名残りを惜しまれながら帰るのです。それまではまったく精神的な愛情生活でしたが、引っ越しを機会に私と彼の肉体関係が結ばれたのでした。それは私が今まで想像もしなかったような興奮と歓喜の世界でした。肉体関係と言いましても非常に単純なもので、抱擁、相互手淫という程度のものでしたが、私にとってそれはなんと素晴しい耽溺の世界だったでしょう。同性愛者のみが味わい得る悦楽の世界でした。
しかしこの生活もあまりにも早く破綻の時がまいりました。それは12月も半ば近くやがて冬季休暇も間近い頃でした。
その一月程前から少し私に対してよそよそしくなり、呼び出しにも快く応じないようになった彼から絶交を宣告されたのです。
その理由が何であったかわかりません。結論からいえば私の真剣な愛情に対して彼が私に期待していたのは上級生としての権力を持つ私であり、経済的援助者としての私であり、性慾のはけ口としての私でしかなかったのでしょう。その頃、私の家は父の道楽から破産一歩前にあり、上級生としてはあと一月もすれば卒業する私であってみればすでに彼には必要のなくなった存在だったのです。
私は私の愛情が真剣であっただけに悩み苦しみました。教室でも一日ぼんやりしていて担任教師はことのほか心配していろいろと事情を私から聞き出そうとしましたが、もちろん私は本当の事は何一つしゃべれるわけはありません。一人で日夜泣き苦しんで幾度か彼に手紙もやりましたが、彼はますます私から遠ざかって行くばかりでした。
私はついに決意して自殺の手段を選びました。両親と私の事を心から心配しうすうす事情も感づいていたらしい親友の武田に遺書をしたためて私は家を出たのです。
深夜凍てついた鉄道線路を夢遊病者のようにして彷徨している自殺一歩前の私は、それとなく私の行動を監視していた武田によって現実の世界に呼び戻されました。
それからしばらく私は武田の家で武田の勉強室兼寝室で彼の友情の監視の中で過ごしました。この間の武田の献身的な友情が一度死を決した私の心に新しい希望を抱かせたのです。
武田の家庭は父は町の医師として名望家であり、武田はまた人好きのする坊ちゃん然とした男でしたが、私が彼に友情以上のものを感ずるようになり、新しい人生を意識したのはその時からでした。武田は積極的に私の要求に応じてくれました。私はここに楽しい第二の人生を打ちたてることが出来たのです。
いよいよ中学を卒業して、その頃熊本にあった第五高等学校を受験しましたが一木との耽溺生活でまったく勉強しなかった1ヵ年は当然の事ながら私を不合格という運命におとし入れました。しかしせめてもの喜びは他の学校を受験した武田も不合格で二人仲良く浪人生活にはいれた事でした。
しかし私はどこまで不幸なのかこの親友武田は卒業した年の10月、胸の病であっけなく死んでしまったのです。
私の最初の同性愛はこうして失われたのです。私の同性愛の対象を求める巡歴はこの時から始まったとも言えるでしょう。
私が中学を卒業した昭和8年、漸次傾きつつあった家運はいよいよ終局に来て、数多の家屋敷も父の借金の抵当として他人の手に渡ってしまい、私達一家は小さな貸家に引っ越しました。このために私は高等学校への進学もあきらめねばならぬ身となりましたが、別に就職を急ぐ事もなく両親がその後生活の手段として始めた下宿業により生活は支えられましたので、私はいろんな自習書や講義録等によって独学を続けていました。
下宿人にはなるべく学生が来てくれればよいと思い、また願ってもいましたが、私の田舎ではほとんど通学しますし下宿するような学生は極めて少かったのでしょう。
そこに私の同性愛の対象を求める事はついに出来ませんでした。
それでも、此の頃に関係の出来た者も2、3はありましたが、それは最初程深刻なものではなく、今ではお互いに音信も絶えています。
こうした異常な性癖の裡に、私の少年時代は過ぎて行きました。もちろん私とて、その異常な性愛心理が気になり、これが正常なる性愛に至る過渡期の一現象であれかしと、心に祈って、中学を卒業した年、友人に誘われるまま遊里に足を踏み入れ、遊女を買って、自己の性慾を確かめんとした事もありましたが、結局、みじめな気持ちで引き上げなければならなかった思い出があります。
結局正常な性行為には何の興味も興奮をも感じない私だったのです。
少年期についてはまだ申し述べたい事もありますが、これからさらに大別して、その軍隊時代、朝鮮在住時代、引き楊げ後の郷里時代、そして上京後とその概略を述べさしていただきたいと思いますので、一応少年期はここでペンを置きたいと思います。
(終わり)
(『奇譚クラブ』1954年3月号)
